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歴史関係・日本文化


この項は最初、犯罪関係にカテゴライズするつもりだったが、
やはり歴史関係にしておくことにした。

・盗まれる日本の文化

日本には世界に誇るべき数々の文化がある。
空手、柔道、剣道といった武術、そして盆栽や茶道、花道などなど・・・。

これら日本文化を、「我が国発祥」として、捏造している国がある。
そう、南朝鮮…韓国である。

何を捏造しているのかを書き出そうと思ったのだが、割愛させていただくことにする。
いかんせん多過ぎるので・・・。申し訳ない。後日気が向いたら書かせていただく。

・空手の起源はテコンドーだ

最近はさすがにここまで露骨な捏造を言う者はいないと思う。
だが、韓国人はテコンドーが高句麗の時代からあったと信じる者も多くいる。
根拠はなんと壁画である。

まぁ、そこのことについては韓国の良識的な歴史学者が多数反論しているので、
彼らに任せておいて、こちらでは空手の歴史的な経緯を見て行こう。

  このような歴史的背景の中から沖縄独特の空手(古くは「ティー」という)・古武道が生まれ発達してきた。
  長い年月にわたる交流の中から中国をはじめ東南アジア諸国の武術のよさを
  沖縄固有の手(ティー)に加味して、今日の空手道・古武道が完成した。
  王国時代は、首里城を中心に発達した首里手、商業都市那覇で栄えた那覇手、
  両者の中間にあった泊村一帯では泊手が発達し、いずれの地域でも著名な武人を多く輩出し、
  その伝統を今日に伝えている。
  空手道・古武道はもともと秘技であり、門外不出であった関係上、文献資料に乏しく、
  殆ど口伝、しかも個人指導で伝承されてきた。しかし、廃藩置県後、新しい諸制度が施行され、
  同時に明治の教育制度の中に空手道・古武道が学校教育として採用された。
  一方では一般公開される動きが生まれ、大正時代に県外へ、昭和初期に海外へも紹介された。

  (2003沖縄空手道古武術世界大会 沖縄の空手道古武道から

厳密には、琉球武術の「手(ティー)」と、中国伝来の武術が合わさって
出来たのが唐手(後の空手)であるとされている。
沖縄の空手の稽古は型主体となっているが、これは中国武術の影響であることも付け加えておく。

さて、沖縄空手には三つの伝説がある。
反論とともに見ていこう。

  ●素手による格闘技である。  
  唐手(空手も含む)が素手のみの武術であるなどというのは、
  現実を無視した勝手な思い込みと言うほかない。琉球には唐手の両輪としての武器術が存在し、
  特に棒術は目覚ましい発達を遂げた。

  ●薩摩藩から隠すために、型稽古中心となった。  
  時々、空手の入門書には、征服者(日本人)に武術の練習であることがバレないように
  踊りの練習に隠したなどと書かれているが、これには特に確証はない。むしろ唐手の稽古が
  型を重視したのは、唐手の直接の先祖である中国拳法の稽古法を取り入れたから、と見たほうが自然だ。

  ●薩摩藩に見つからないように、稽古は隠れて行われた。
  これも中国拳法の影響である。隠れて稽古を行なったというよりも、
  むしろ拝師(内弟子入門)した者以外には教えなかった、というのが実情に近いだろう。
  つまり、誰もが唐手修行をできたわけではなく、例外を除けば、基本的に富裕な
  階級の者しか学ぶことができなかったようなのである。

  (空手の歴史から

私は沖縄で空手を習っていたことがあるが、実はと言うと、この伝説を聞いたことがなかった。
沖縄ですら語られることのない伝説であるので、注意されたい。

さらに引用に付け加えておくと、本土に唐手を伝えた船越義珍が安里安恒のもとで
唐手を習っていた時代には、人目を避けるために夜道を通っていた。
人目を避けるのは、単に「しきたり」であっただけで、薩摩から隠れていたわけではない。

さてテコンドーであるが、念の為、空手とテコンドーの関係について見ていくことにしよう。

  青涛館創立者の李元国(イ・ウォングク)翁など1940年代中後半にテコンドーを
  広めるのに先頭に立った多くの元老たちが日本でカラテを修練した人々であることは
  既に広く知られた事実だ。 いまだにこの事実を知らない人はこのことについてこれ以上
  あれこれ言い立てるべきではない。 実際、李元国(イ・ウォングク)翁は日本の松涛館の
  系譜に今でもその名前が登録されていると知られている。

  松武館を建てた盧秉直(ノ・ビョンジク)翁も日本の松涛館カラテを修練したと知られているが、
  自身が建てた松武館の「松」の字がまさに松涛館の「松」であると知られている。
  李元国(イ・ウォングク)翁が建てた青涛館の「涛」も松涛館の「涛」だ。 これは名前を
  明らかにしないよう頼んだテコンドー元老から直接聞いた話だ。
  この元老はテコンドーはカラテの「イミテーション(imitation)」だと言った。

  いまは故人になった青涛館出身のウ・ジョンニム将軍は記者との対話で、
  「私は空手道(コンスド)をしていて、のちに崔泓煕(チェ・ホンヒ)将軍などが
  主軸になって名前を変えただけだ」とも言った。 米国テコンドー発展に大きな貢献をした
  ATAの故イ・ヘンウン会長も、自身がはじめて米国に行ったとき「コリアン カラテ」として
  自身の武術を紹介して教え、実際テコンドーとカラテの差はなかったと証言した。
  これらはすべて、テコンドーという武術がもともと存在せず、カラテを学んだ人々が解放後に
  道場を開いてカラテの韓国式発音である「空手道(コンスド)」を教え、
  後になって「テコンドー」という名前を使うようになったことを物語っている。

  (テコンドーが空手の影響を受けたのは事実から

このほか、テッキョンと言う暗殺舞踊(または伝統武芸)がテコンドーの源流になったという話しもあるが、
テッキョンは格闘技でもなんでもないのでこの説も覆される。

  テッキョンは旅芸人がソウル近郊で催していた遊技であって武芸ではない。
  また、野蛮であることを理由に李朝期に何度も禁令が出され、
  李朝末期にはほとんど消滅しかけていた。戦後は一人だけ残っていたとか。
  それに14世紀高麗朝の記録にあるのはsubak(手搏、手拍)、テッキョンの記録の初見は18世紀末。

  (剣道の起源は韓国にあり!? テコンドの話題から

ちなみにテッキョンは中国武術よりも600年も古いとされている。
要するに、東洋格闘術の元は韓国にあると言いたいわけである。

百歩譲ってテッキョンがそこまで古い武術だとしても、伝承もされていない武術では
なんの価値もないし意味もないし意義もない。語られるだけで終ってしまうのでは武術ではない。

・柔道の起源は朝鮮のユドだ

  柔道(ユド)とは? ユドは伝統武道です。 高麗王朝時代、武器を持たない
  戦いの方法として中国から韓国に伝わりました。秀吉の侵略(1592-97)の時代に
  日本に伝えられた後、朝鮮王朝の後期に朝鮮半島では廃れました。1910年頃、護身法としての
  現代的な形態で、ユドは日本から韓国に再び伝えられました。

  ジュードーとユドには類似点があり、韓国のジュードー家が国際的なジュードー競技会において
  相当な成功を成し遂げていますが、両者には基本的な違いがあります。 ジュードーは武道として始まり、
  オリンピックのスポーツに移行しました。多くの元武道は今や「武道的スポーツ」です。
  逆に、ユドはその完全性と護身武道としての目的を維持しました。

  ユドには攻撃がありません。我々は攻撃者を負かすのに攻撃者自身の力を利用します。
  我々が攻撃者に引き起こす損傷は、攻撃者によって我々が直面している脅威のレベルに比例しています。
  我々は過度に力を使用する必要がありません。
  アメリカ合衆国においてユドは新千年紀のための伝統武道です。

  (アメリカ合衆国柔道(ユド)協会から

攻撃者を負かすのに攻撃者自身の力を利用します、というのは合気道のことではないのか?
そもそも、この説明を読むと柔道とは全くの別物と受け取れるのだが、なぜわざわざ
「柔道」と漢字を当てるのだろうか。全く理解出来ない。

  オリンピック競技として世界に広まっている柔道は日本で生まれた武道です。
  柔道は1882年、従来の格闘技そのものだった柔術に精神修養の要素を加え確立しました。
  柔術のルーツは相撲です。相撲の歴史は古く、神話時代から持統天皇の治世(686〜697)までを
  記述した日本最古の史書である「日本書紀」(720年完成)にすでに登場しています。

  12世紀にサムライが国を治める鎌倉時代が訪れ、17〜19世紀の江戸時代まで、
  戦いのエキスパートであるサムライの統治が続きます。これは今日の柔道にとって幸運なことでした。
  刀、弓の手法と同時に、戦場で相手と接近して組んで戦う「組み討ち」を想定した柔術が発展したからです。
  江戸時代までにいくつかの流派が生まれ、武士の鍛練法の一つとして広がりました。

  1868年、サムライの統治は終わり明治維新を迎え、日本人の生活に欧米の文化が
  取り入れられるようになりました。古くからの柔術は衰退しつつありましたが、ある若者の情熱が
  消え行こうとしていた柔術を救います。柔道の創始者として知られる嘉納治五郎です。
  嘉納は勉強の成績は抜群でしたが体は小さく、コンプレックスを抱いていました。17歳のころ、柔術の
  天神真楊流師範の福田八之助に弟子入りします。強くなりたい一心でした。

  そして、1882年5月、各流派のすぐれた点を集めて現在の柔道の形に一本化します。
  弱冠21歳でした。これが現在の柔道の始まりです。門下生はわずか9人、
  お寺の庭に構えた道場はたった12畳(1畳は約1.5平方メートル)でした。

  (柔道の歴史と現在から

嘉納治五郎氏は、前述の船越義珍を本土に呼び寄せ、空手の演舞を披露させた立役者でもある。
日本武術界になくてはならない存在であったようだ。

その他、コチラのページも柔道の歴史を見るうえで役に立つ。一読されたし。

ユドという武術が例えあったとしても、それは日本の柔道とは何の関係もないことだけは確かである。
その関係のない武術を、あたかも日本の柔道と関係あるように
見せることで、自分達のプライドを満たしているのである。
そんな腐った精神は、是非とも武術を習って拭い去ってほしいものだ。

・日本相撲の起源は朝鮮のシルムだ

また高句麗壁画が関連してくる。
壁画に書かれていることは韓国では全て史実なのだろうか。

  三国時代のシルムについての史料は高句麗の壁画の角抵塚で探すことができる。
  壁画には審判官に見える一人が見えて、二人は向かい合ってシルムをする姿が描かれている。
  我々はこの資料から古くから我々の先祖たちはシルムを楽しんだだろうという推測をしてみることができる。
  また、端午の日にはシルム競技を開いて、勝者に壮士または
  勇士という名前と厚い賞を与えたと伝えられている。

  (シルムの歴史から

推測ですか。

  朝鮮朝中期の明宗15年(1560)5月の記録によれば、シルムは村の子供と
  儒学者たちでもやるものであるにもかかわらず、宮廷の中でまでやるのは遺憾だと
  いう大きな課題があり、このことからシルムが試練期を経たことが分かる。

  朝鮮後期に至ってシルムはより一層広く普及した。
  金弘道が描いた風俗図を見ればひとりの壮士が相手を投げているシルム場の
  周辺にひとりの幼い子供が飴板をぶら下げて飴を売る姿があるので、
  土俵には多くの人々が集まったことが分かる。

  (中略)

  中国人たちがこれを見習って高麗技とも言い、僚較とも言った。
  中国人が見習って「高麗技」と言ったという点から推して、我が国で行なう
  シルムの多くの方法が中国に伝えられたことが分かる。

  また、我が国のシルムは日本に渡っていき「相撲」に変形され、
  柔道にも多くの技術を提供するようになる。

  (シルムの歴史から

日本史上で相撲が初めて文献に出てきたのは、日本書紀。
そして日本書紀の刊行は720年である。
明らかに時代が合わないのは何故だろうか。

しかもその当時、「柔道」はない。

そもそも、相撲はモンゴルにもあったし、トルコ、琉球にもあった。

  日本の相撲、ロシアのサンボ、韓国の相撲シルムやテコンドー等国技とされる伝統的な
  格闘技が各国にはある。そしてモンゴルにもやはりモンゴル相撲と呼ばれる国技が存在する。

  大相撲の旭鷲山や旭天鵬の活躍で注目されるモンゴル相撲とはどのような競技か触れてみたい。

  その歴史は日本の相撲より遥かに古く、今から2500年前から存在していたと言われる。
  かつてかのチンギス・ハーンもこの競技を愛し、自らも取っていたそうだ。

  (モンゴル相撲から

ちなみにモンゴル相撲のことを「ブフ」と呼ぶ。

  沖縄には大相撲とちがい沖縄角力(相撲)というのがある。
  柔道着の上着のようなものを着て帯をしめて右四つに組んでから始めるから、
  相撲よりもモンゴル相撲やシルム(韓国相撲)の方が断然近い。それゆえ同じ相撲でも、
  沖縄では大相撲のことを江戸相撲という。祭りのときなどは、両方の大会が行われるが、
  同じような人が出ても優勝者は違う。まったく違う相撲(競技)である。

  (HYPER高砂部屋から

ちなみに沖縄角力のことを「シマ」と呼ぶ。
琉球王朝時代からあったようだ。

  2.相撲(ギュレシュ)について
  その歴史と語源

  オスマン・トルコ帝国の相撲は油相撲(ヤール・ギュレシュ)とよばれ、
  牛の皮のズボンを履いたレスラーがオリーブ油を体に塗って相撲を取ります。

  どうして油を塗るのかには
  ・レスラーが自分の体を美しく見せるため
  ・ヌルヌル滑る油によって体を掴みにくくするため
  ・オリーブ油によって体を清める、虫除けにする・・・など諸説があります。

  弓矢や乗馬などの遊牧民起源のスポーツの一つです。
  階級分けなどの専門用語にはペルシャ語が使われています。

  オスマン宮廷内における相撲
  相撲は王子たちの教育・娯楽の一環としてのスポーツに取り入れられ、
  レスラーの中にはスルタンたちからの敬愛を受け軍人として出世する者もいました。
  帝国後期にはその屈強な体が帝国の強さの象徴としてみなされ
  西欧各地へ派遣され、相撲を取ることもありました。

  また、宮殿に仕えたレスラーたちは
  小姓達と同じ内廷ではなく外廷に勤務し、相撲を取ることで俸給を得ていました。階級分けされ
  戦いに勝った強者だけがスルタンに拝謁し、御前相撲に参加出来たようです。

  (トルコの娯楽・相撲編

その他、コチラのサイトにも世界の相撲や相撲の歴史などが載っている。一読されたし。

こうして見ると、シルムは日本の相撲よりも、モンゴルや琉球の相撲と似ているようだ。
ならば何故、わざわざ日本の相撲に絡めて話しをするのだろうか。

大体、相撲のように単純なルールのスポーツが、一つの地域を起源として広まるだろうか。
それこそ自然発生したと見てもおかしくないはずである。
なぜ、韓国人は独自のシルムをそのまま発展させるのではなく、捏造を絡めてしまうのか。
答えは簡単。独自の文化に自信がないからである。
歴史的に事大主義で属国主義だった朝鮮は、独自の文化を誇るにも他国の後ろ盾がないと
安心できないのだ。

それを考えると可哀相ではある。
だが、捏造をすれば余計見下されるということに気付いてもらいたいものだ。

・剣道の起源は朝鮮のコムドだ

朝鮮における「剣道」を見てみよう。

  新羅で大きく興った剣術は、高麗時代まで影響を及ぼして発展して伝えられてきた後、
  朝鮮朝に至って崇文賎武思想が広まるにつれて衰退期を迎えるようになった。
  一方、我が国から剣術文化を受け入れた日本は、その間これを継承・発展させ、
  むしろ剣の文化を花開かせるようになった。

  (剣道の歴史から


  ア) 剣道の由来
  剣の歴史は人類の歴史と共にする。 文明の発達にしたがって、
  剣は石剣から銅剣,鉄剣へと進化した。 特に朝鮮正祖14年(1790年)に
  刊行された武芸図譜通志に収録されている本国剣法は、
  新羅花郎である黄倡郎から起源した世界最古の剣法だ。
  剣道という用語は、中国の漢書芸文志に初めて現れ、
  我が国では1896年に治安の必要性から警察の教習科目として実施されたのが現代剣道の嚆矢だ。

  (剣道とはから

突然だが柔道、剣道には、一つの共通点がある。
それは、術から道へ、スポーツ化していったということだ。
実践的な柔術、剣術から、精神的な道、スポーツとしての柔道、剣道へ。

…なら、何故「日本ではなく、我が国が起源だ」としている
韓国のその武術は、最初から「道」とついているのであろうか?

まぁ、そんなことを気にしていても仕方ないことなのかもしれないが…。

  剣道(Kumdo)とは剣術である。
  あなたは剣道の起源が日本だと思っているかもしれない。それは明らかに
  間違いである。日本は剣道をスポーツとして発展させたが、剣道の起源は
  韓国にある。韓国には固有の剣術である'朝鮮勢法(Cho Sun Se Bup)'と
  '本国剣法(Bon Gook Gum Bup)'があった。

  (The history of Kumdo(日本語訳)から

剣道の起源とは、一体何か?
剣術の起源を語るのなら、それこそ一体どの地域が起源なのやら分かったものではない。
紀元前何世紀から剣というものが存在しているのやら。
一体彼らは、剣の技術の何を指して「起源は韓国にある」と言っているのだろうか。

答えは簡単。「日本の剣道(剣術ではない)の起源は韓国である」と言っているのである。
では、剣道が起こる前の日本に確かに存在した、剣術は一体何処の国が起源であるのだろうか。

  剣道の歴史を遡るとき、欠くことのできない基本的な段階がいくつかある。
  その源は日本刀の出現である。彎刀で鎬(しのぎ)造りの刀は日本独特で、
  平安時代(794〜1185)の中頃に出現した。その原形は日本列島東北地方に
  住み騎馬戦を得意としていた部族が平安初期には既に使っていたと思われる。
  以来、武士集団に使われ、日本最初の武士政権,鎌倉幕府末期に製作技術は
  飛躍的に進歩した。「鎬をけずる」といわれる剣の技は、日本刀とともに日本に
  生まれたものであると言っても過言ではない。

  (全日本剣道連盟 剣道について…歴史から

それでは、「剣道の起源であるはずの韓国の武士であるはずの人々」を見てみよう。

脇差が体温計のようである。
詳しくはこちらのページを参照されたし。

最後に全日本剣道連盟の見解を引用する。

  ■剣道の起源に関すること
   最近、インターネット上などで「剣道の起源は日本ではなくて韓国である」という
   記述がしばしば見かけられますが、全日本剣道連盟はこれまで、これに敢えて
   反論はしてきませんでした。というのは、剣道は日本の武士の生活の中から
   生まれた日本独特の文化であるという考えでいたからです。
   しかし、最近、上のような記述がますます頻繁に見られるようになってきたことから、
   改めてわれわれの見解や方針について広く知って頂く必要があると考えました。

  ■剣道とは何か
   「剣道」とは、日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ、
   剣の理法を自得するために歩む道を指し、剣道を学ぶということは、
   この剣の理法を学ぶことを意味します。敢えて言えば、剣の理法の奥にある
   武士の精神を学ぶことが重要で、剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、
   その為の一つの手段と見られています。
   これが剣道の目的が「人間形成の道」と言われている理由です。

  ■「剣道の起源」についての考え
   鉄の発見とともに鉄製の剣が作られるようになり、それと共に鉄製の剣を
   使っての戦いが始まりました。剣の形態やその操法も、幾多の戦いの中で、
   時の流れと共に、変化していきました。
   そもそも、各地域にある文化とは、人類の移動、交流とともにお互いに影響しあい、
   発展をとげていったものです。そして次第に人種、国境を超えた
   世界人類の文化となっていくものです。
   そのような過程を考えると、ある時代の中ででき上がった一つの文化を取り上げて、
   その起源を論じ、その発祥の地を特定の国だけにはめこむことは、所詮無理なことであり、
   余り意味のあることではないと考えています。これは剣道についても同様です。
   剣を扱う技術は世界の各地で生まれ、確立されてきました。
   しかし、その中で、われわれが行っている剣道とは、「剣道の歴史」にも記されているような、
   日本で育った歴史的背景をもった剣道を指しています。

  (全日本剣道連盟 剣道に関する全剣連の見解から

韓国は、「ある時代の中ででき上がった一つの文化を取り上げて、その起源を論じ、
その発祥の地を」己の国だけにはめこむことに一生懸命である。
もちろん、それは「その文化が日本に関わっているときだけ」のようだが…。


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