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歴史関係・従軍慰安婦


・いったい従軍慰安婦とはなんなのか

  「従軍慰安婦」。日本軍が戦時中、コリア人や支那人等の若い女性を組織的に連行して、
  日本兵の溜まっている「性欲のはけ口」にしたと言われているもので、現在も保障を求める
  コリア人女性が日本政府を相手取って損害賠償請求裁判を求めています。

  (「従軍慰安婦」を強調するコリアの不条理から

確かに、韓国人女性が日本に「謝罪と賠償を求めて」裁判を起こしたりするニュースが
コンスタントに入ってくる。もちろん、報道はほとんどされていないが。
だが、彼女らの言う「従軍慰安婦」というものは、本当にあったのだろうか?

・従軍慰安婦の謎

  「従軍慰安婦」等と言うものは、当時、存在し得なかったと。それは、なぜか?
  まず、「従軍慰安婦」なる用語は戦後生まれたもので、当時は存在しなかったからです。
  又、「従軍慰安婦」問題で、日本の進歩的文化人や支援者達は「女子挺身隊」と混同しますが、
  「女子挺身隊」は軍需工場等で、落下傘(パラシュート)や兵器の生産に従事した女性達の事であって、
  決して、「売春」を生業(なりわい)とはしていませんでした(私の伯母も「女子挺身隊」だった)。
  そして、決定的な事ですが、「従軍慰安婦」は明らかに歴史捏造の産物だと言う事です。

  (「従軍慰安婦」を強調するコリアの不条理から

南京大虐殺との共通点として、「戦後生まれの用語」であるということ。
この問題もやはり鵜呑みにするのは危ないようだ。

  平成3(1991)年末、かの『朝日新聞』が「従軍慰安婦」問題で徹底的な糾弾キャンペーンを
  展開した事がありました。この時、吉田清治(よしだ-せいじ)氏の著書
  『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983)の「慰安婦狩り」の問題が、

  「済州(チェジュ)島にて軍の協力により、慰安婦狩りを行い、一週間で205人の女性を強制連行した」

  と言う記事として掲載されました。しかし、その後、千葉大学の秦郁彦(はた-いくひこ)教授の
  実地調査では、吉田氏の著書は「捏造」である事が発覚(その報告は『正論』1992年6月号 に詳しい)。
  又、『週刊新潮』1995年1月5日号 の取材結果でも、事実無根である事が判明。当の著者も
  「あれは創作だった」と認めたのです。
  (記事捏造がお得意な、天下の大新聞『朝日新聞』の面目躍如ですね>笑)
  
「従軍慰安婦」を強調するコリアの不条理から

やはりと言うか、なんと言うか・・・。
ここでも朝日新聞は大活躍していたようだ。

  いわゆる「従軍慰安婦」に関して読売新聞が8月4日、8月11日の両日社説を掲載しました。
  8月4日は「『慰安婦』問題をもてあそぶな」と題するもので、中川農林水産大臣の
  記者会見に関するものです。ここでは名前は挙げていませんが「わざわざ韓国の反発を
  そそのかしている報道がある」「歴史を捏造していた一部マスコミが、捏造への反省も訂正も
  ないまま、重ねて問題発言だと騒いだからだ」と、この問題に対して態度を明確に表明すると共に、
  一部のマスコミ(朝日新聞のことだと思います)を批判しました。

  8月11日は「国連の権威損なう『慰安婦』報告」と題し「96年の一次報告は、詐話師とさえ
  評されるある日本人が創作した“慰安婦狩り物語”をそのまま引用するなど、きわめて粗雑なものだった」、
  「詐話師の偽書を称揚したり、勤労動員だった女子挺身隊を“慰安婦狩り”だったと歴史を偽造するような
  一部マスコミや市民グループ等が、国際社会に対して、偽情報を振りまいてきた」、
  「加えて浅薄な外交的思惑から、裏付けもないまま、慰安婦の『強制連行》認めたかのような93年の
  河野官房長官談話があった」と「慰安婦強制連行説」を捏造した者と、
  それを追認した「河野談話」を厳しく批判しています。

  (「従軍慰安婦に関する読売新聞社説」から

そもそも、従軍慰安婦という言葉は、いつできたものなのか。
これが意外なほどに新しい。なんと1973年。今現在2003年だから、ちょうど三十年前である。

  日本ではじめて「従軍慰安婦」を戦争犯罪として世に広めたのが、
  千田夏光著「従軍慰安婦」(1973年)および「続・従軍慰安婦」(1974年)です。
  この本では、千田氏が「挺身隊」として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5〜7万人が
  慰安婦にさせられたと書いています。しかし「挺身隊」とは軍需工場などへ勤労動員された者のことで
  「慰安婦」とは全く別のものです。また、挺身隊員で慰安婦になれと強制された例は一つも確認されていません。
  これは朝鮮の反日運動家が「挺身隊で連れて行かれる者は慰安婦にさせられる」というデマを流したのを、
  千田氏がろくに検証もせずに書いてしまったようです。

  (慰安婦強制連行のウソから


  千田は、ソウル新聞1970年8月14日号の記事「1943年から45年まで、挺身隊に動員された
  韓・日の2つの国の女性は、全部でおおよそ20万。そのうち韓国の女性は、5〜7万名とされている」を
  誤読したようだ。そして、韓国の記者が「5〜7万名と推算」した根拠は不明である。

  (「半島女子勤労挺身隊」についてから


  ■2.慰安婦問題の経緯■
  まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。

  1) 昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」の中で、
    昭和18年に軍の命令で「挺身隊」として、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦に
    したという「体験」を発表。朝日新聞は、これを平成3('91)年から翌年にかけ、4回にわたり、報道。
  2) 同3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、売春行為を強いられた
    「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、と報道。
  3) 同4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、
    「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」 と報道。この直後の16日から訪韓した宮沢首相は
    首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。
  4) 同5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果、
    「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例 が数多くあり、更に、
    官憲等が直接に荷担したこともあっ た」と発表。この河野談話によって日本政府は、
    慰安婦が軍によって強制徴集されたことを公式に認めてしまったことになる。これを契機として、
    中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記述されることになっていった。
    今日では、各方面の調査が進み、以上の報道、発表がどれだけの事実に基づいていたのかが
    明らかになってきた。

  (国際派日本人養成講座 「従軍慰安婦」問題(上)から

「千田がつき 吉田がこねし慰安婦餅 座りしままに食らう韓国」と言ったところだろう。
ちなみに、千田夏光著の「従軍慰安婦」が1973年、
吉田清治著の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」が1983年である。
少しややこしいので、念の為記しておく。

・従軍慰安婦と強制連行

従軍慰安婦問題と強制連行問題は切っても切れない関係にあるようだ。
強制連行は別の項で触れることにしたいのだが、もしかすると
資料が被る可能性もあることを、先に記しておく。ご了承願いたい。

  軍の命令で慰安婦狩りを行った体験談を語る唯一の加害証人は、
  『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房)の著者吉田清治氏である。
  韓国の済州島へ行き現地の軍人達と次のように強制連行したと述べている。

    「翌日から徴用隊は慰安婦の狩り出しを始めた。・・・私は直ちに部落内の狩り出しを命じた。
    路地に沿って石塀を張りめぐらせた民家は戸が閉まっていて、木剣を持った兵隊が戸を
    開けて踏み込んで女を捜し始めた。・・・隊員や兵隊達は二人一組になって、泣き叫ぶ女を
    両側から囲んで、腕をつかんでつぎつぎに路地へ引きずり出してきた。
    若い女ばかり八人捕らえていた。・・・」

  吉田証言は朝日新聞やテレビ朝日にたびたび登場したが、内容に疑問を持った方々
  (中村粲氏、板倉由明氏、上杉千年氏ら)の検証によって、軍の命令系統から本人の経歴まで
  全てが嘘であることが判明した。秦郁彦氏は、唯一場所と時間が特定されている済州島へ
  現地調査に出かけたが老人たちに聞いても完全否定され、すでに調査を行っていた『済州島新聞』の
  女性記者にも「何が目的でこんな作り話を書くのか?」と聞かれる始末であった。
  この問題には、第三者としての証言者がいないということである。

  (我が子に伝える誇りある近代史 被害者は、どういう人たちかから。

それでは、初の「従軍慰安婦裁判」を見てみよう。

  ■5.名乗り出た慰安婦■
  次に2)の自ら名乗り出た慰安婦について。平成3年8月11日付け朝日新聞は、社会面トップで
  「思い出すと今も涙」「元朝 鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、
  「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた
  朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人 が」名乗り出たと報じた。しかし、この女性、金学順さんは、
  「女子挺身隊」として連行 などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。
  ある韓国紙はそれを次のように報じた。[2,p291]

  生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキ ーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。
  三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、
  華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付

  当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。 国家による組織的な強制連行とは関係ない。

  (国際派日本人養成講座 「従軍慰安婦」問題(上)から

キーセンとは公娼のことであると認識してもらえれば間違いはないだろう。

  今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、 9人だが、
  信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、
  釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。
  残る二人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、
  この証言集では、強制連行された とは述べていない。結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、
  従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、 というのが実態である。[2,p275]

  (国際派日本人養成講座 「従軍慰安婦」問題(上)から


  問題は、我国の国家権力が「女衒」と同じことか、または、強制連行したかどうかである。
  それに該当する資料はなにもない。
  「連行」されたと称する人たちの発言を調べたら、どれも「女衒」との関係は推定されても
  国家権力に「強制連行」されたことを証明できるものはない。あったら証拠を示して欲しい。

  それなのに国家権力が「従軍慰安婦」を「強制連行」したかのごとき記述が、
  教科書に登場してきた。これは明白に歴史の捏造である。事実あったのならどんな醜いことでも
  直視する勇気が必要だ。だが、ないものがあったということになったのだから恐ろしい。
  この歴史の捏造を根拠に、今度は米国が、日本人の米国入国を拒否するという事態に発展したのである。

  (存在しなかった慰安婦強制連行から

・慰安婦とは結局なんなのか?

  では、世に言われる「従軍慰安婦」は全く存在しなかったのでしょうか?
  実は存在していたのです。しかし、その実態は、戦後言われるようになった
  「従軍慰安婦」とは全く違うものだったのです。

  戦時中、「従軍慰安婦」は存在した。この一語を以て、進歩的文化人や支援者達は
  小躍りするかも知れませんが、それは彼らの早合点と言うものです。私が言いたいのは、
  民間業者が日本軍向けに行っていた「売春」は存在しただろうが、日本政府・軍が「国策」として、
  「従軍慰安婦」に関与した事実は無いと言う事です(両者を混同すべきではない)
  まず、当時 ── 戦後になって「従軍慰安婦」と呼ばれる事となる女性達の多くが、大和撫子 ──
  「日本女性」だったと言う事実です。そして、彼女達は「強制連行」されて来た訳ではなく、
  自ら「志願」してその世界に飛び込んだと言う事実です。よく、「従軍慰安婦」と言うと、軍の管理する
  施設に「隔離」され、外界とは接触を許されずに、来る日も来る日も、日本兵の相手をさせられたと
  言う事になっていますが、これも虚偽です。彼女達は、食べ物にも事欠くご時世の中、「三度の飯」が
  保障される「従軍慰安婦」の世界に自ら飛び込みましたが、軍の管理する施設に隔離等されては
  いませんでした。又、時として、「客」として通ってくる常連兵士と街に出て、ご馳走を飲み食いし、
  ダンスを踊ったりして楽しんだ共言います。こう言う証言に接すると、当時の「従軍慰安婦」達と、
  現代の風俗嬢達と、一体、待遇で何処が違うのか?と考えざるを得ません。

  (「従軍慰安婦」を強調するコリアの不条理から

現代の風俗嬢よりも、「三度の飯」が保障されてる時点で好待遇のようにも思える。

  しかし、それでも、進歩的文化人や支援者達は「従軍慰安婦」はあった!!
  「日本軍による強制連行」はあった!! と声高に叫ぶでしょう。しかし、戦後半世紀を経た今の今迄、
  何一つ、「日本軍による強制連行」を裏付ける明確な資料は見つかってはいません。あるのは、
  損害賠償を求める「被害者」達の証言だけ。日韓両国間での戦後賠償が決着済みな事もありますが、
  証拠資料が無い現状では、たとえ裁判をしたとしても、裁判と言う裁判になる訳もなく、
  事態がより混迷・複雑化するだけです。又、当時は、「公娼制度」 ── つまり「売春」が公認されていた時代です。
  当時の日本同様に、朝鮮半島の貧村の食うや食わずの家庭で、親が自分達の娘達を「身売り」した事も
  あったでしょう。とすると、親に「身売り」された共知らない女性が、
  女衒(ぜげん:遊女等の口入れ手引きを生業とする仲介業者)を日本軍の差し向けた「強制連行」の実行者と、
  思い違いをしたとしても何ら不思議では無いのです。

  (「従軍慰安婦」を強調するコリアの不条理から

そして、その女衒に、朝鮮人が多数いたのも事実である。

  第二次世界大戦中のアジアには、日本を含め悲しいことに自分の娘を売って、
  一家が生き延びなければならないどうしょうもない貧困が各国に存在していた。
  このような社会状況の中で、娘を買って、公娼や私娼経営者に売春婦として斡旋をしていた
  「女衒」と呼ばれた仲介業者が日本人にも朝鮮人にもいた。売られた各国の娘は、客に体を提供、
  収入をえ、前借金に充当させられた。これが当時の売春業の実体だ。

  太平洋戦争に突入、日本軍は、中国大陸や東南アジアに戦線を拡大するにおよび、
  一部売春業者が、これら軍隊を相手に売春業を現地で始めた。売春相手が、民間人か軍人かの
  違いはあるが「女衒」が娘をカネで買って業者(日本人も朝鮮人もいた)に供給している構造に変化はない。
  (存在しなかった慰安婦強制連行から

ちなみにこれを見てもらいたい。1943年7月現在 の日本陸軍の階級別年俸である。

大将 6600円 年俸
中将 5800円  
少将 5000円  
大佐 4440−3720円  
中佐 3720−2640円  
少佐 2640−2040円  
大尉 1860−1470円  
中尉 1130−1020円  
少尉 850円  
准尉 75−32円 月給
曹長 30−23円  
軍曹 20円  
伍長 13.5円  
10.5−6円

  彼女らの収入について、元海軍中佐杉浦実は彼女らの前借金が4千円から
  5千円であったと言っています。そして彼女らはこの前借金を3ヶ月から半年で返し、
  平均的な貯蓄額は5−6千円から1万円持っていたと言っています。
  その中には3万円も持っている人も居て、皆驚いていました。アメリカの反撃が予想以上に早く、
  彼女らの中には爆撃で死んだ人も居ました。又前借金の返済が終わったにもかかわらず、
  船がなくて帰ることが出来ず、前線で亡くなった人も居ます。終戦と共に彼女らの大半は日本に帰りました。

  (歴史論争最前線 従軍慰安婦についてから

当時、貧しい人々が、娘を慰安婦に出すのもうなずける話しである。


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