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歴史関係・南京大虐殺


・中国のプロパガンダ

まずはじめに考え付くのが「南京大虐殺」だろう。
今だに、これを事実と信じている人が絶えない。

そもそも、南京大虐殺とは・・・

  1937(昭和12)年12月13日の南京陥落の翌日から6週間の間に、女・子供を含む
  南京市民や無抵抗な中国軍兵士の捕虜(国民党、現台湾政府軍)を含む約30万人が殺害されたとされる事件。
  その事件後には国際連盟・諸外国から非難を受けたと教科書に掲載されている。
  東京裁判において日本軍司令官、松井石根(まついいわね)大将が虐殺命令を行ったとされ、
  絞首刑となっている。

  (南京大虐殺はウソだ! 南京大虐殺とは?から

である。それでは、まずこの南京大虐殺に関して、
おかしいと思われる部分をいくつか箇条書きしていこう。

  ・当時の南京の人口は約20万人だった。殺害された人数と明らかに合わない。
  ・30万の死体をどこに片付けたのか、それにどのくらいの期間、人員を必要としたのかがハッキリしない。
  ・物資の不足していた旧日本軍が、虐殺をしなければならなかった理由・メリットがない。
  ・いったい日本兵が何十万人いたら、短期間でそれだけ殺害できるのだろうか。
  ・よく話題に上る「三光作戦」は、元々中国語であり、日本軍はそんな作戦を取っていなかった。
  ・東京裁判は、本当に信用できるのか?

軽く考えて、この六つ。
ではまずは人口の問題から見ていきたいと思う。

・殺害数30万人と、当時の人口20万人の謎

  防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。それがどうして30万なのか?
  幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。
  そこで虐殺派は、何とか住民の人口を増やそうとする。
  洞富雄氏は「日本軍が南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた
  市民の数は25万ないし30万であったといわれている」
  「敗残兵の掃討が終わった後の南京には、20万人近い市民が居住していたものといわれる」
  「とすればその差10万ないし5万が被虐殺者ということになる」
  (洞富雄(ほらとみお)著『南京事件』(新人物往来社)179ページ)。
  「いわれている」「いわれる」というだけで何の根拠もない。洞(ほら)氏がただ想像し、
  憶測(おくそく)しているだけの話で、信憑性は全くない。

  (南京大虐殺はウソだ! 第1の論拠、南京の人口から

  「南京大虐殺」。昭和12(1937)年12月13日、松井石根(いわね)・陸軍大将率いる日本軍が、
  南京城を陥落させた際、市民「30万人」を虐殺したと言われる事件。
  しかし、日本軍は本当に「30万人」もの南京市民を虐殺したのでしょうか? 
  実は、「東京裁判」において断罪された被害者数一つ採っても、「南京大虐殺」があまりにも
  「虚構」である事が分かるのです。この時、検察側が起訴状や陳述等に挙げた数字は、
  「員数不詳な数万」・「概略26万人」・「数万」・「我が同胞27万9586人」・「被殺害者確数34万人」・・・。
  そして、判決文でも、「総数は20万人以上であった」・「十万人以上の人々が殺害され」・・・。
  つまり、「虐殺」されたと称する南京市民の数が確定されていないのです。更に言えば、東京・世田谷区と
  ほぼ同程度の面積だった、当時の南京の人口は、外国人記者の記録で15万人、最も多く見積もっても
  25万人だったとされ、その内、国民党軍の兵数が3万から5万人。と考えると、「市民」の数は20万人前後と
  言うのが妥当な数なのです。ここで、「30万人」と言う主張は早くも崩れ去ってしまいました。

  (日本軍国主義の象徴 「南京大虐殺」等ありえない!から

要するに、被害者数の正確な人数など分からないのである。
東京裁判で、それをロビン弁護士が指摘すると、ウェッブ裁判長は慌てた様子で
「今はそれを持ち出すときではない」とさえぎったという記録がある。

南京の人口の推移にも問題がある。
日本軍の占領後、南京は人口が激増しているのである。

  陥落直後の人口が20万人。しかし、その一ヶ月後には25万人と、何と5万人も
  増えているのです。もし、「大虐殺」が事実だとしたら、虐殺で当時の市民全員(20万人)
  死んだ一ヶ月後に、各地から被害者数を上回る25万人もの人間が南京に移ってきた事になります。
  普通、一般的に考えてこの様な事があり得るでしょうか?

  (日本軍国主義の象徴 「南京大虐殺」等ありえない!から

  国際委員会としては、難民に食糧供与をするため、人口の掌握が必要である。
  12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載していたのが、
  1月14日になると5万人増加して25万となっている。
  以後2月末まで25万である。これはいったい何を意味するのか?それは、南京の治安が
  急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠である。
  民衆は不思議なカンを持っており、独自の情報網があるから市内の治安回復がわかるのである。
  正月を控えて、郊外に避難していた民衆が、誘い合わせて続々と帰り始めたのである。
  南京占領後、虐殺・暴行・掠奪・強姦など悪魔の狂宴は6週間にわたって続いた(東京裁判)、
  などということは真っ赤なウソであることが、これをもってしても証明されよう。
  だいたい治安の悪い、大虐殺の地獄のような街に、どうして民衆が続々帰還して来るであろうか?

  (南京大虐殺はウソだ! 第2の論拠、難民帰還で人口は急速に増加から

例えば、貴方は治安の物凄く悪いところへ引っ越そうと考えるだろうか?
このような人口問題に対して、虐殺論者の明確な反論を、少なくとも私は聞いたことがない。

  しかし、どうしたものか、いくら呼びかけても市民の間から日本軍の暴虐や大虐殺に対する告発がない。
  初期の調査に対し市民は「冬のセミのごとく口をつぐみて語らず」で、何の訴えもない。
  そこで委員会は、「種々探索、訪問の方法を講じ、数次にわたりて」手を変え品を変えて告発者をつのった。
  その結果まとめたのが次のような「敵人罪行調査書」である。

  「・・・退去に当り敵軍の掃射を蒙り、哀声地に満ち屍山を築き、
  流血膝を没するの惨状を呈し・・・争いて揚子江を渡り逃げんとする我が軍は、
  ことごとく掃射を受け屍体は江面を覆い、流水もなお赤くなりたる程なり」

  このような文学的名文?で「34万人が屠殺せられたり」と主張されても、信用できるはずがない。
  しかもこの文章で見る限り、これは戦闘時の状況であって、いわゆる「虐殺」でない。

  (南京大虐殺はウソだ! 第7の論拠、崇善堂の11万埋葬のウソから

・30万人分の死体の行方

  つまり、南京城近郊の山かげなども含めても10万とか20万という死体が存在したと言う
  認識は存在しなかったようです。少なくとも安全区の外国人も、日本側でもそういう認識は
  していないし、また、防疫の観点からも10万単位の死体の存在を見過ごすこともできないでしょう。
  死体数を隠蔽する理由は日本側には存在しませんし、仮に隠蔽するなら、軍が密かに埋葬を行うか、
  又は資金を援助して口止めを図るかといった手法を取ると考えるのが自然ですが、
  そういった形跡(証言・資料など)はないようです。

  (南京大虐殺の虚構 死体はどれくらい存在したか?から

  東京・世田谷区の5分の4ほどの狭い市街に、1万2000人もの死骸がゴロゴロしていたという。
  それこそ街という街は、横町であれ大通りであれ屍体だらけのはず、もしそうだとするなら、
  おそらく屍臭は街をおおい、嘔吐を催し、市民は耐えられたものではなかろう。
  屍臭は100メートル先から鼻をつき、その強烈さは、衣服に染み込み洗っても消えないほどだ。
  屍体を片づけても3日や4日屍臭だけは残る。

  (南京大虐殺はウソだ! 累々たる死体を見たものなどいないから

死体の異臭は強烈らしい。よく、隣りから異臭がするので調べてみると、
密閉された風呂場に、ゴミ袋で包まれた腐敗死体が見つかったと
いう殺人事件が発生するが、一体でもそれほどの異臭をバラ撒くのである。
それが何十万体もあったとしたら、どうだろう。

では、誰がどのように死体を片付けたのか。
現在言われている埋葬記録は、次の通りである。

  1 紅卍字会の約4.2万
  2 崇善堂の約11.2万
  3 太田供述の15万(水葬約7万他日本軍が処理したもの)
  4 その他約6万

  東京裁判に提出されたのは
  「紅卍字会=約4.2万」
  「崇善堂=約11.2万」
  「個人埋葬と南京市長の合計=約1.3万」である。

  (南京大虐殺の虚構 南京大虐殺の定義から

しかし・・・。

  ■埋葬団体について日本側と外国人の記録に残っているのは「紅卍字会」のみであり、
  同団体の 記録が複数団体の集計であることも判明している。
   ■崇善堂については、外国人、日本側双方に記録なし。
   ■また、太田供述については信憑性が低く、特に水葬7万についてはほぼ否定されている。
  埋葬記録自体は、死体の総数(民間人、軍人)を表すものなので、 その数が即、
  虐殺を表すものではない。また、改葬(埋めなおし)なども重複 して計上されている可能性が高い。

  (南京大虐殺の虚構 南京大虐殺の定義から

とくに、東京裁判の資料にも提出されたという「崇善堂」だが、非常にキナくさい存在らしい。
東京裁判に提出された埋葬数15万という資料に対し、弁護団は次のように反論する。

  (1)、この統計表は10年もたってから作られたものである。死体を10年後に明確にしようと
  してもそれは不可能であり、結局この数字は全く想像によるものと断ぜざるを得ない。

  (2)、死体発見場所からみても、これらの死体は戦死者の死体である。
  日本軍による虐殺死体とするは誤りである。

  (3)、この数字は多分に作為されたものである。例えば崇善堂の作業を見ると、
  最初の4月までの間は1日平均130体であったものが、急に1日平均2600体となり、
  これを連続10日間にわたり作業したことになり、その誇張・ずさんは信用しがたい。

  (4)、雨花台、水西門、中山門等は当時日本軍により清掃されたる地域にして、
  戦後5ヶ月を経過したるのち、このような多くの死体が存在するはずがない。

  (5)、紅卍字会の数字の中には、女・子供は皆無に近いが、崇善堂の数字の中には、
  すべて男子、女子、子供を適当な減少率で死体数を記入してある。明らかに作為的な数字である。

  (南京大虐殺はウソだ! 第7の論拠、崇善堂の11万埋葬のウソから

また、このような証言などもあるようだ。

  第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述懐している。

  「死体処理は日本軍が主体となって、各種民間団体、多数の苦力(クーリー)を使って行った。
  しかるに、紅卍字会や崇善堂が日本軍とは無関係に、独自に処理したかのように発表しているが、
  事実に反する。本表は、日本軍による処理作業に参加した苦力の話を
  基礎にして、後年になって作り上げたものである」

  「証言・南京大虐殺」によれば、崇善堂の各隊は主任1、隊員1、人夫10の計12名で
  構成されているという(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)167ページ)。
  ところが前述のように、1日平均2600体も埋葬している。
  ブルドーザーもパワーシャベルもなく、トラックも軍用以外ほとんどない時代に、
  どうしてこのような大量の埋葬が可能か。

  (南京大虐殺はウソだ! 第7の論拠、崇善堂の11万埋葬のウソから

結局、かなり怪しい団体であるということが分かる。
そこで、下の結論に行きつく。

  崇善堂の”存在”はともかく、埋葬記録11万を証明する資料は存在せず。
  埋葬を行っていたとしても小規模である可能性もある。紅卍字会に
  協力(実質的な指導下)で埋葬活動を行っていた場合、その活動は紅卍字会の
  埋葬活動として認知されるので、崇善堂が記録に出てこない可能性が高い。

  (南京大虐殺の虚構 崇善堂の存在から

埋葬数がこれだけあるから、虐殺数はこれだけです。と決めつけるのも
かなりのムリがあるだろう。中国兵や日本兵の戦死者がいるからだ。
戦死と虐殺は違うのは、明らかである。

・大虐殺をすることによるメリットや理由

ハッキリ言って、あるわけがない。
メリットよりもデメリットのほうが大き過ぎるのは、すぐに気付くはずだ。

  1.弾丸など、物資の無駄遣い
  2.兵士の体力の無駄遣い

人を一人殺すのに、どれほどの体力を使うだろうか。
大体、殺される側は死に物狂いで抵抗するのは目に見えている。
カタナで殺していったという証言もあるが、切りつけるだけでは人は案外死なないものである。

中国人が皆、スペランカーの主人公並にひ弱だったとすれば、理解できないでもないが。

・日本軍は、史上最強の軍隊だったのだろうか。

突然だが、広島、長崎に落とされた原爆の被害者数をご存知だろうか。

  ファットマンによる長崎の死亡者数 73,884人
  リトルボーイによる広島の死亡者数 約247,000人
  両都市の死亡者数合計 約320,884人

爆風で死亡した者、瓦礫に押しつぶされた者、原爆症で死亡した者などを
含めて、これほどの被害が出ている。
ちなみに沖縄戦全体の戦没者数は、約238,408人である。

これだけ見ても、南京大虐殺の「30万人」という数字がいかに無茶なものか、
お分かりいただけるのではないだろうか。

  南京占領時に居た、犬飼總一郎氏に聞くと「そんなことはあり得ない」と一笑に付された。
  南京を占領した兵隊たちは、それぞれ大規模な兵舎に入れられ、通常時と同様定時に点呼を受け、
  厳しく管理されていた。兵隊たちは、南京攻略戦までボロボロになった装備を手入れし、
  次の作戦行動に向けた準備をするのに連日忙しく、さらに各城門の警備師団司令部の警備、
  食料の配送といった任務が交代であってものすごく忙しく、休日はあったが銃剣を持ち出すことなど
  絶対に不可能だった。食料は上海から南京に進攻中、無錫に大補給基地があってそこで補充してから
  充分あった。最前線の兵隊以外は略奪する必要はなかった。そもそも何で難民だらけの安全区に
  わざわざ入って略奪せにゃならんのか?・・安全区にいたのは避難もできない貧乏な難民だけ
  だったのである。・・・安全区は日本兵も入れぬように厳しく警備されていたし、外国人のジャーナリストも
  多数いるのだから、日本軍は彼らの目をいつも気にしてなければならない』
  『(「新ゴーマニズム宣言 第5巻」p154)

  (我が子に伝える誇りある近代史 南京事件 諸説の紹介から

そもそも、日本軍は南京攻略までにかなりの激戦をしかれ、戦死者も相当数でていたのである。

  ここでの支那軍は強く日本軍の戦死者は非常に多かった。
  南京攻略までの日本軍の戦病死者は、松井大将のメモでは、
  2万4千人に達したというし、支那軍の戦死者は、何応欽上将の
  軍事報告では3万3千人といわれているという。

  (南京虐殺 やはり大袈裟な宣伝だったから

それだけ激戦が続いたということは、装備品などもボロボロだったのは間違いないだろう。
それでも30万人の虐殺をこなしたのなら、日本軍は異常に強い軍隊であったと推察される。
なぜ連合国軍に負けたのだろうか。疑問である。

ところでこの年表(全国連ホームページ)を見てもらいたい。この年表によると、
日本軍が1937年12月13日に南京に入城してから、最低15万7410人を虐殺していることになる。
人数が出ている部分のみを簡単に計算した数字なので、もっと多くなるのだろう。

驚くべきことに、日本軍が15万7410人を殺すのに要した時間は27日間だというのだ。
なんという最強の軍隊なのだろうか。いよいよ戦争に負けた理由がわからなくなってくる。


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